Double Peace :)

機能不全家族育ちの被虐待児。ものすごく元気に見られる心の病気持ち。ずっとスポーツが大好き。夢は健康に笑顔で大切な人と生きること。幸せな家庭育ちだけど見た目や雰囲気や性格や好みは僕と似た、前から知ってる子(ニコ)にこっそり片想い中。DV親からいずれうまく逃げるための手段を色々考えながらも、数年前に非DV親が入院・手術した後、今年また入院・手術の治療があってそれまで以上に家のことも頑張る毎日。
機能不全家族育ちの被虐待児。
ものすごく元気に見られる心の病気持ち。
ずっとスポーツが大好き。
夢は健康に笑顔で大切な人と生きること。

幸せな家庭育ちだけど
見た目や雰囲気や性格や好みは僕と似た、
前から知ってる子(ニコ)にこっそり片想い中。

DV親からいずれうまく逃げるための
手段を色々考えながらも、
数年前に非DV親が入院・手術した後、
今年また入院・手術の治療があって
それまで以上に家のことも頑張る毎日。
時代が進んでも忘れたくないこと

時代が進んでも忘れたくないこと

神社で多くの人たちが賽銭箱に入れる小銭。

今はその小銭を預けるのにも手数料が要って
その分金銭的な負担も大きいらしい。


電子マネーでのお賽銭にすれば
そういう負担もかからなくて済むし
合理的でいいんやないかという意見も
あるけどどう思うか?というのを

仕事の合間にテレビでやってるのを見た。


神社とかも運営面で色々と
一般の参拝客には分からない事情も
あると思うし、小銭の預け入れにかかる
手数料の負担がどうこうというのも
確かに現実としてあるんやろうなと思うし、

現金でも電子マネーでも“お金”で
あることには変わらないんやけど、

あくまでも僕の個人的な考えとしては

電子マネーでのお賽銭もいいという
決断をした神社を責める意図は一切なく

ただ何でも合理化、能率化ばっかりを
考えないといけない社会は悲しいなと思った。


たぶん僕の世代でこんなことを考えるのは
もはや珍しい部類なのかもしれなくて、

それがまた生きづらさを加速させるんやけど;


合理化とか能率化ばっかりを重視してたら
大事なことを見失ってしまう気がする。


もし僕が今、小学生くらいやったとして
お小遣いを電子マネーでもらったとする。

実際に手にしたお札や小銭やなくて
ただの数字でも、親や周りの大人の
教え方によっては、お金の大切さは
学べるかもしれないけど、それってきっと
すごく難しいように思えてしまう。


500円あるから、1000円あるから、って
お菓子や文具をいつも以上に買ったら

いつもより沢山あったはずのお金は
あっという間になくなってしまうという、

500円玉を細かいお金にくずしたり
1000円札も小銭になってしまえば
気付いた時にはもうほとんどない

というような経験をしてない子が
お金の大切さをどうやって学ぶのか

というのはかなり難しいんやないんかな。


僕はDV親の異性問題での借金で
子どもの時も含めてお金に苦労したから
余計にお金の大切さが
身にしみてるのもあるかもしれないし、

電子マネーなんてない時代に
子どもの頃を過ごしたDV親でも
そうやって大金を異性につぎ込んで
借金がかさんだということは
お金の大切さを分かってなかった証拠で

逆に言えば電子マネー時代でも
そういう破滅的なことはしないという人だって
沢山いるんやろうけど。


お金に限った話やないけど、

何でも効率や能率だけを追い求めた先って
どうなるんやろうなと思う時がある。


仕事面ではそういう視点、目線が
必要な場面もあるとは僕も実感するけど、

生活の全てが効率や能率、合理性が全て
になってしまったら、めちゃくちゃ苦しい。


Googleマップで迷わずに目的地に行けたら
そりゃ便利やけど、紙の地図やガイドブックを
見ながら歩いて一本違う道に行ってしまって

そしたら当初行く予定やった所よりももっと
自分が好きな場所を見つけた

みたいな体験も絶対に(とは言わんけどほぼ)
ないわけで、そういうちょっとでも無駄やと
判断されがちなことも、人生の中では
大事やったりすると僕は思うんやけどなぁ。


家に紙類が増えたら処分が面倒やから
全て電子上、画面上で済ませるというのは
確かに合理的かもしれないけど、

たまにもらう手紙で、相手が書いてくれてる
自分の宛名とか手書きの文章って

効率や能率を考えたら劣るのかもしれなくても
僕はものすごく心温まるし元気をもらってる。


どっちでもいいよという選択肢が
あるならまだいい。

だけど、これからの時代はこうすべき!
みたいにその合理化に無理に全振りされると
生きにくい時代やなーってうんざりしてしまう。


仲がいい人たちと、どうでもいいような
話題で笑いあったりするのだって
生産性があるかないかで言えば全くないし、

昔、技術の時間に作ったような
自分で作ったラジオで音楽を
聴くとかそういう体験だって

「スマホで聴けるんやから
何でいちいちそんな面倒なことすんねん」
とか言い始めたら、世の中の手間や
ちょっとした面倒は全て意味がない
ということになってしまう。


ちょっとした愚痴や
誰かに聞いてほしい話だって相手が

「効率悪いからその話やめて。
時間の無駄やん」
って言ってきたら誰も何も言えなくなる。

だけど、そうやって効率が時間がどうこうと
普段は言ってる人も、心が弱ってたり
参ってる時は誰かに話を聞いてもらいたいとか

誰かがひと手間かけてしてくれたことに
心を癒されたりするはずで。


全く無駄のない生き方をしてる人間は
そういう意味ではいないんやないんかな。



ちょっとした手間の中に
大事なことが隠れてる場合だって沢山ある。

それを効率化とかで削ぎ落とすのは
僕は好きではないし、苦手な考えやなぁ。

**

色んな人と話す上で、

ああこういう言い方は相手が
嫌な気持ちになるなあと思ったり、

本人にはそのつもりはないんやろうけど
しつこいなあと思ってしまったり、

毎日のように学びがある。


人のふり見て我がふり直せ、
っていうのは本当にその通りやなあ。


同じことでも人によって
それが嫌な人と嫌ではない人に
分かれる場合もあるとは思うけど、

自分がされて嫌やなと思ったことはしない

相手は特に何も気にせず話してる場合でも
自分には引っかかる時もある、とか

これからはもっと頭に置いて
周りの人と接するようにしていきたいと思う。

**

写真は大晦日の夜なんやけど、

普段こんな感じで晩ご飯の後に
何かを食べることはほぼないから

すごく新鮮というか、特別な感じがした!


お正月明けのいつものスケジュールは
“いつもの”とは思えないくらいしんどいけど、

一生懸命自分らしくまっすぐ生きた先には
将来に繋がるいい縁が繋がってると信じて
一日ずつを乗り越えていこう。

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